間山陵風(父=初代)の兄は間山沢義(雲龍)二人共すでに他界されているが
兄弟9人のなかでもっとも仲のよい兄弟であった
父の実家はこんにゃく屋
父の父は間山澤次郎(明治10年生) 入内高田村出身で北片岡へ分家してこんにゃく屋を開いた
大正6年あたりに黒石出身の「つゑ」と再婚
(大正7年)大正7年に長女「はつゑ」、9年に次女「みつゑ」、10年に長男「沢一」、12年に次男「沢義」、14年に三男「沢次」、昭和2年に四男「浅市」、4年に五男「浅次」、6年に六男「浅義」、9年に七男「浅男」
次男の沢義は長男と共にシベリアへ抑留されて、後に帰還後、イデオロギーでは大議論をしたり、その後民謡の成田雲竹師と出逢い民謡を習った また家業のこんにゃく屋を長男と共に守りながら、身体障害を持ちながらも懸命に書道の腕を磨く弟の後押しをして、道場開設の際は大活躍をし、共にその道場で書道と民謡の教室にしたのであった
雲竹師は津軽民謡の発展に寄与した偉大な師であり、その一番弟子として、雲竹流民謡道場を青森で真っ先に開いた人であります。
第一期の道場は狭い部屋の中でした 昭和31~32年頃でした
すでに雲竹師と竹山さんは昭和25年から出逢い、伴奏者としてのコンビを始めていた
そこに雲龍氏の道場ができたことで、時々顔をだすようになりました
水茎の第二期の道場は昭和35年、正式に水茎書道院の看板とともに、日本民謡協会雲竹流民謡外ヶ浜会という看板を並べて掲げた まさに間山の兄弟の文化事業の旗揚げだった
道場が広くなったところで、道場はフル回転
火木土が習字 金曜日が民謡教室 正式に竹山師は会の伴奏として毎週顔を出していました そのうち、水曜日が竹山三味線教室になったことで、三味線だけ習いにくる方が増えてまいりました
月水金はそろばん教室も始まった 当初は青森でも選手で名高い「松井さん」という女性の先生を迎えて始めた その後近所で木村さんという父の友人がそろばんを教え、それから弟子のチエ先生がそろばんを担当
毎日のように習字、そろばん、民謡の歌声、太鼓や三味線の音が近所に響き渡ったのである
まぁ北片岡177番地(長島3丁目)はチョー有名な『珍百景なやかた』であったに違いない
真夜中は父が展覧会に出すために画仙紙を道場に散らかしていたし、窓を開けながら詩吟を唄う 気合入ってるものだから、子供たちが騒ぐと大声で叱る 或いはげんこつを振り回す 一ヶ月に一度は日蓮宗の「国柱会」または関連した政治結社「立憲養正会」の会議や集いなどもあると、夜は懇親会で大騒ぎ 真夜中の10時すぎまで大きな声が近所中に響き渡った
きっと苦々しい思いでいたことだろう
ある日、民謡のおけいこのとき、隣りのSさんのおじいちゃんが、戸をドンドン叩いて静かにしろ!と大声を出したことが二~三回あったそうだ
ほかの家々はみんな我慢をしていたことでしょう
当時は駐車違反もあまり厳しくない時代で、民謡の例会がある日は、近所の道路には10台ちかい車が停まっていたはずです
なにしろ防音装置もない家で、今のように二重窓でもない 真夏は窓を開け放して太鼓や唄でしたから
私も子供のころ、銭湯に行って帰りに100m近づけば聞こえていました
みんな諦めていたのでしょうか?
また逆に民謡がお好きな人は窓の外にいて、ずっと聴いてる人もいた
雲龍先生はその人たちを中に招き入れたりしていました
中には竹山先生のほか、後に有名になるすごいメンバーがいたのでした(敬略称)
西川洋子・・・安方の甚太古の娘さんで青森放送のレギュラー
楠美竹善・・・第二期竹山会の会長さん(魚河岸の幹部)
館山善一・・・後に市議会議員
長崎栄山・・・神戸で妻の雲栄とともに民謡教室をひらき、多くの弟子を育成
須藤雲栄・・・ 〃 〃
後藤吟竹・・・港町で魚屋や焼きそば屋を開きながら民謡の師となる(民謡日本一)
工藤竹風・・・油川出身 民謡の師となりながら、ねぶた作りでも有名
白鳥雲道・・・雲竹師からもあいや節などは絶賛された 後に民謡社中の代表となる
水上幸子・・・三味線のお弟子さんでしたが、保村幸子として中央で津軽弁の語り部として活躍されています
そのほか、竹山師の内弟子に入ったところの岩手県から伊藤竹味さん、東京から18歳で上京してきた房子さん、後の高橋竹与さん(二代目竹山)でした
お二方は実に真面目で、青春もなにもなくただ先生のおそばに使えて、家事も一切行い三味線の稽古に明け暮れたのでした
とくに竹与さんの場合は20数年にもおよぶ長い間、先生の手となり足となって、支えながら自らの芸を高めていったのでした。
そして二代目を襲名されたことは、道場を提供した水茎にとっても大変嬉しいことです
また、 1971年(昭和46年)青森放送で竹山を取り上げたドキュメンタリー『寒撥』が放送。一般にその名を知られるきっかけとなる。番組は同年度の文化庁芸術祭で優秀賞に選出された
その後、音楽観賞団体のさきがけの「勤労者音楽協議会=労音」からの誘いで全国津々浦々を数十年かけて回ったそうだ
渋谷のジャンジャンでは若者を中心に人気となり、津軽三味線をならう人が急増した
むしろ地元の青森でその価値をあまり知らない方が多いのは情けなかった
1977年(昭和52年)新藤兼人脚本・監督により映画『竹山ひとり旅』が製作され、モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品される。竹山役は林隆三が演じた。
民謡外ヶ浜会は昭和37~47年ころが一番華やかであったかもしれません
毎年のように発表会を行い、当時の市民会館で開催されました
当然我が父は一会員として伴奏のハーモニカを吹いたり、鼓を叩いたりして、また会の事務局として長年発表会などではイベントの企画や裏方を担当していました
また習字で展覧会があれば民謡の会員は必ず手伝ってくれました
そのほか、市民文化祭があると書道も展示会があり、民謡もまた雲龍先生が青森のまとめ役で父も私も手伝いをいたしました
書道の研修会で八甲田の蔦温泉で開催された第1回(S37年)はバス二台で、100数名もの人数で行き、当時最先端の映写機で撮ったりしていました
その後毎年のように蔦研修会では竹山師と外ヶ浜会の面々も同行し、沼の前では子供たちが合唱したり、呼びかけを行います。
その締めくくりには雲龍先生や、竹風先生の唄に竹山師の尺八伴奏、そして横笛での演奏など素晴らしい思い出となっております
本当に水茎書道会と外ヶ浜会は一心同体でした
研修会は外ヶ浜会が独立して離れていっても数回書道だけで行われましたが、なんだか今いち物足りなさがあった気がします
今考えると、兄の雲龍先生が外ヶ浜会を移したことと、竹山会を楠美先生に譲り移したことなどで、竹山師とも疎遠になり、疎遠になることであれだけ深い絆で結ばれていた関係も薄くなっていったのは息子としても寂しいなぁと感じていました
今、竹山師も、成田雲竹師も父や雲龍さんたち、そして奥様や友人たちとみんな天国で手を携えて会を催しているのでしょうか
竹山師の家を守っておられる孫の高橋哲子さん宅に、竹山師の孫弟子で埼玉在住の「山本竹勇師」とともに今年の冬に訪ねてまいりました
昔の家はすでに建て替えられ、ご立派な祭壇があり、竹山師や奥様の「なよ」さんのお写真や肖像画、そしていろんな懐かしいものが見られます
哲子さんも私同様にきっと寂しさもありましょうが、大きな軌跡の名誉に囲まれて
事あるごとに、笑ったり泣いたりしながらも、勇気を奮い起こしていることでしょう
S29年に交番で始まったが、学校向かいの土田商店、当時はたばこ店だったのか、何屋さんだったんだろうか?塩、雑貨
田舎の店ですからまぁ何でも置いていたのかもしれません。
黒石のコモセを連想するように、店の中は1.3mくらいの幅の通路がありました
そして奥は長~い土間の通路が裏口まであります
途中に井戸やトイレ 数軒の間借りしてる家族がおりました
何でも戦前は五連隊(日本陸軍第8師団歩兵第ご連隊が正式名)が青森高校あたりにあり、土田さんのところが宿舎の一部だったと聞いております
私が知ってる筒井の教室は初めて父についていった(夏休み?)小学5年位の頃
バスに乗って知らないところへ行くのはワクワクでした
バスが堤を曲がるとすぐにもう人家は減り田んぼが見え、八甲田山が見えました
ようやく筒井の曲がり角を曲がって床屋さんの向かいの土田の家具屋さん?(記憶違いかも)の前で降りると、あとは川を越えて50mくらいで土田たばこ店がありました
向かいは広いグラウンドがあり遠くに小さな校舎が見えます。それが筒井小学校でした
川のそばに2階建ての古い建物が見えます それが筒井支所だったそうです
次は高校2年の頃(昭和43年)造成されたばかりの新しいモデル団地で、道路はきれいに整備されて、桜の苗木もあちこちに植えられていたが、まだ住宅はほんの少ししか建っていなかった 筒井中出身のクラスメイトと自転車での帰り道立ち寄った
(第三公園などそこで数人の子供らと話をした経緯があって、その3年後にその子達が習字を習いにくるという偶然があった)
友人と分かれてそのまま土田商店までくると、丁度内弟子の小泉さんが支部を任されており、窓から覗き込んだら、「ほれ、みんなあのお兄さんが大先生の息子さんだよ」と言ったものだから、みんなジロジロ見られて照れてしまった
その頃もまさかその教室を引き受けるとはよもや思わなかったのである
高校を卒業ちかくなり、友人たちが次々と就職を決めていた
当時の青森商業高校は、市内の主な会社や事業所の代表はほとんど青森商業卒であったし、60年の卒業生が全国で活躍してて、地元の青商生を求人にくるのであった
一人の高校生に5~6人の会社が奪い合うという求人難の時代である
それでも私は何かになりたいという目標もなかった 兄が東高校から3~5年は東京で修行するという約束で先に出てしまい、寂しくなった父は、ようやく就職が決まった私の肩を叩いて、「おまえ東京行やめれや、青森にのこれ!」と言われて驚いた
私だって当時はみんなあこがれの東京へ就職するのは楽しみにしていた
父の命令は絶対の我が家であった すぐさま母が東京の方に断りの連絡を入れた
父は跡取りに私にさせようとしていたのである 兄は不器用で書はうまいが、子供によくなつかれる次男の私のほうが適性があると思ったのでしょう
それでもすぐにはダメなので、まず実家のこんにゃく屋さんに就職しなさいと言った
当時の自分には自分の意見がなかったのだろう、言われるままだった
父としては扱いやすい息子だったに違いない
もし、社長が気に入って間山商店の将来重役となるならそれもいいと思ったようだ
実家の会社の専務をしていて、民謡の叔父の雲龍さん(父の兄)を呼んで相談してすぐに決まった
そうして私は本家の会社に就職したのだった 高校時代の友人も2、3人青森へ残ったので、会社が終わるとすぐに遊びに歩いた もう書道なんか休みがちで仕事が終わると遊びまくった
一番右が自分(18歳ころ)
若いもんだから遊ぶと午前様のときもある だが会社は朝5時とか6時に出社しなければならない きつかった 疲れが出てボ~!としてて大事な製品をひっくり返してしまったりの失敗があった
金木へ(右が自分 19歳?)
製造業なので、朝上司とトラックで市場に卸しに行って帰ってから朝ごはんを食べて、そのあとゴムかっぱを体につけて、ゴム手袋をはめてこんにゃく作りをする
工場長の寺山さんの無駄のない動きを真似した かっこいいなぁと思うのだが、なかなかうまくできない いっつも下っ端の仕事しかさせてもらえない こんにゃくは石灰を使うので、手が荒れてしまった 指の間すべてが割れてしまい、痛くてたまらない 若いのにこんな手をしてる友は誰もいなかった
夏6月ころ ところてん作りが始まる これをまだ新人の私に専門にやらせることになった 工場長が一生懸命に教えてくれる ところが順番間違えたり、大きな釜の熱温度を間違えたりで蒸かせてしまってところてんが釜から溢れてしまうのだった
するとこんにゃくを結ぶおばちゃんたちが「あれぇ、大損害だよ~」と皮肉をいう
すんごく嫌だった 誰でも覚えるまで時間がかかるよと心で反抗していた
2ヶ月くらい経ってようやく手順も覚え、ところてんを一人で作れるようになった
嬉しくて友人に持っていっては「俺のつくったところてんじゃ 食えよ」
でも同じように作っても寺山工場長がつくるのは弾力があり、美味しい
自分のはもろくて崩れやすかった
製造に余裕が出てくると、外を見る余裕も出てきた 向かいのタイヤ屋には友達の友達がかっこよくタイヤ交換をしている、おいらはおいらでかっこよくところてんを造ってるぞと すぐいい気になってまた溢れて大失敗をした
折板という板数十枚に流し込んで、冷まして固まったら、外へ運んで風で更に冷やす
その板を運ぶのに最初は4枚が関の山 足元はコンクリートが滑るのだ ところが慣れてくると6枚持って運べる オイラは「力持ちだ!」ってんで8枚持って周りにすごい!大丈夫?無理すんなよと言われてるのに、一度ならず二度くらい8枚持ったままスッテ~ン!と転倒してまた失敗・・・・一枚で1000円ちかくする8枚なら・・・そう何千円もの損害なのだ いったい自分は会社のためになってるんだろうか?
それでも会社からの初めての給料日 ドキドキ
朝早くから12時間働いても残業手当もないが、26000円頂いた 当時の東京での高卒の初任給が28000円だったので、そう悪くはない
母に言われたとおり、父へ給料そのまま渡した すると父は「おぉ!ご苦労さんだった はい!これはお前の小遣いだ」と言って6000円を私に 2万円は父が頂いた
友人に話すと「ひどい!自分で働いた給料を家に入れるの?古い!」驚いた
当時は東京から両親に仕送りしてる人は大勢いたと聞く
わたしの友人たちは誰ひとりいなかったのである そして夏頃になるとみんな車を買っていた 友人と遊びに行くと一晩で3000円位は飲んでしまう これではすぐに小遣いがなくなってしまう そう思って「酒を飲む付き合い」は極力断った
当時コーヒーは70~100円 喫茶店ならかなり安く付く 一杯のコーヒーで時間を長く延ばしてとりとめのない話ばかりしていた
ドライブに行って先でなんか食べるときでも友達におごってもらうことが多かった
そうでないと自分にはお金がないのだ
だんだん友達に彼女が出来てくる 自分も紹介されてひとり彼女らしい人ができたのだが、あまり容姿など好きな人じゃないが、とりあえず誰かと付き合っていなくては、カッコウが悪いと思っていた 同じ年齢の女性は好みじゃない (そんな考えで女性とつきあっていては女性に失礼である)
でもそのAさんという女性は週に三度くらいは会社へ電話をして誘ってくる
会社の上司に冷やかされて参った 「のんさんの背中に電話をつけなくちゃ」余計なこっちゃとまた心で思った (今のように携帯があったらいいのにねぇ)
たまに会社を早く終わるとたまに書道教室に顔をだした(出さないと父が機嫌がわるい)
すると当時は若い女性も習字を習いに大勢きていたのだった
20歳になって自分も免許をとり、車を買ったころは父は必ず
「T子さん うちの息子が送るから心配しないで」と言うのだった
面倒くさいときもあったが美人な娘さんだったら、嫌なこともなかったので「いろんなお弟子さんを送っていった」
でも元来 あまり社交的でなかったし、自分に好意を示してくれる人もいたのに、気の利いたおしゃべりもできず、恋愛に発展することもなく 無駄に年月がたち、いいなぁと思う人はみな嫁に行ってしまうのだった
本家の会社に勤めて一年が立ったころ、盲腸になり入院した 退院して家で養生してたら、叔父さんが迎えにきて「なに休んでるんだ!今、会社は大忙しだ、早く来い!」と怒鳴られた
まだ本調子でないのにまた10時間の労働が始まった
冬になって腰の調子が悪いのに気づいた やたらに仕事中に腰を気にするのを工場長が「腰が痛いなら病院へ行ってこいよ」という
何だかイヤイヤ仕事をしてるように思われて嫌だったが、会社を抜けて整形外科に言った 問診で「あぁ力仕事で毎日限界を越えての筋肉を使うから腰にきたんだなぁ、これは椎間板ヘルニアですな、一ヶ月ほど入院して腰を引っ張れば治るよ、まだ若いから」
よく入院するなぁと母に言われたが、しょうがない
一ヶ月の入院は退屈だった 内蔵が悪いわけじゃない 入院してるほかの患者はみな年上でもっとひどい人が大勢いた 大手術した人も それでもおいらに遊びに行こうと誘うのだ 誘われて断れない自分がいた
夜こっそり抜け出して、映画観にいったり喫茶店に入ったり、パチンコをしたり 先輩がお金を出してくれるので、何度もいろんなところへ連れて行かれた
初めてSTRIPーSHOWも見せてもらえた
しかしある日婦長さんが怒って「あんたたち、間山さんを連れ出してだめでしょう」「間山さん、この人達と付き合ったらろくでもない人になっちゃうわよ」
そうして退院した私はしばらく会社を休んで家で養生していた
父も心配して、「おまえこのまま会社へ行ってたら腰が悪化するかもしれない」
「そうだ、書道の手伝いをしなさい」会社にはお世話になりましたと挨拶に行った
「習字の先生になるんだって?がんばれよ、若先生!」 照れてしまった
そうして翌日から習字の日には準備、掃除、父の隣りに机をおいて、始まると小中学生の子を一回目自分が添削をして、二回目は生徒が父の方で見てもらう 終わったらまたあと片付けと掃除
習字のない日は自動車学校へ行かせてもらった
週三日しか学校へ行けないので、なかなか進まない 二ヶ月もかかってようやく卒験
だが時間がかけた分、頭によく入っていたのか、理論は十分だった 実技は会社でかなり練習していたので、ばっちりOK! 仮免も卒験も順調にいった
早く公安委員会へ行って本試験を受けたくて予定より早く行った
いっしょの学校の知人も来ていて頑張ろうと励ましあった 発表で私とS君が受かりあとH君ともうひとりは落ちたようだった
受かったよ!と父にいうと待ってたように、オヤジはすぐに車を買うてはずをした
民謡の叔父の知人の自動車屋にちょうどいい中古車があるという
最初は新車買わないほうがいいとのこと、足立ナンバーで当時はやっていたニッサンサニークーペ1000ccを紹介してくれた
3万キロしか走ってなくて15万 車検も18ヶ月付きだとのこと
父はさっそくそれに決めた
1週間ほどでその車が届いた 初めての車がスポーツタイプでしかも当時珍しいオートマチック車だった
左足がなんだか変だった(使用しないので)信号が青になって自分のサニーが一番早く前に出るのだ それが自慢だった 友達もスゲェスゲェという
困ったのは毎週、父がドライブに行こうということだった
たしかに買ってくれたのは父だが、おいらにも日曜日など友達との付き合いがある
父には言えずに母いってようやく間接的に許されたようで、月に二度の日曜には友達と遊びに行けたのだった
S33年 子供たちが猩紅熱で一ヶ月の入院をし、ようやく退院したものの、女房の八重母さんが妊娠中で家事もままならないので、家事手伝いがずっと必要な家庭だった
私の記憶でも親戚関係のお婆ちゃんが二人、母のいとこが一人(石岡さん)、近所のおばさんが一人(藤田さん)、中学出たばかりの女の子が二人(キミコさん)(ミチコさん)もっといたかもしれません(順不同)
今のように洗濯機があったわけじゃありません 一日3回のご飯したく、一家5人の洗濯、とくに子供達全員がねしょんべんをたれていたそうですから、それはそれは大変な量だったと思います
そしてまた新たに赤ちゃんが生まれる
はたらけど
はたらけどなお、わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る石川啄木『一握の砂』にあるように若い陵風は大変な困難な時代であったことだろう
それを頑張れたのは、師匠がすすめる国柱会の教え(日蓮の教え)と、母つえの深い愛情、一緒に南無妙法蓮華経と何千回唱えたことだろうとのちに話してくれた
5月9日、無事男の子が誕生
後日名前を父が壁に張り出した 「武和」
五月に生まれたので武者人形の「武」、それでは剛すぎるので、「和」で調和してタケカズと命名したのだった
みんな赤ちゃんを「たけちゃん」と読んだ 末っ子のことを津軽ではヨデッコという
めんこくてめんこくてたまらないので、つい可愛がりすぎて、甘えん坊になるので、「ヨデッコ」だもんなぁ仕方がねぇなあと言ったものだった
ちなみに一番目の兄はあんさま、あんちゃま、次男はおんじ、おんちゃまと呼んだ
女の子は?知らない、やはり津軽では男尊女卑があるのか、女の子のそうした呼び名は考えていないのだろう
でも男の子を「わらし」「わらはんど=子供たち」というのに対し、女の子は「めらし」「めらはんど」と呼ぶ
そして津軽ではなんにでも・・・「こ」をつけるのはご存じだろう
箸っこ、ねごっこ、おもちゃっこ、だから、おんちゃま(次男坊)も「おんちゃこ」末っ子は「よでっこ」になった
さて4人目の子が生まれて大変賑やかになり、家事はいっそう大変になり、家事手伝いも新しく若い女の子がくるようになった
まだ15歳のミチコさんさん あっしらガキには大人に見えたが、買い物、洗濯、炊事など大忙し 記憶はあまりないのだが、たぶん我が家に住み込みで働きにきてたんでしょうなぁ 一家6人にミチコさん 狭い家に賑やかな暮らしだったことだろう
S35年母の健康状態がおもわしくなく、親戚に預けることになった
それを引き受けたのは、ほかならぬ筒井の教室のを世話した陵風の姉の山口初恵さんだった 彼女も5人の子(正典、ゆう子、正博、久子、正昭)を育てていたが、身体が丈夫だったので、OKしてくれた 当時は野内の駐在所だった 遊びに行ったことがあるが、まるで八戸くらい遠いところのような感覚だった
たけちゃんは粉ミルクを飲んですくすくと育ち、まるまると太っていた
3ヶ月くらい経って秋頃だったかにたけちゃんは帰ってきた
まだ床に伏していた母だが、「あれぇたけちゃん母さんだよ」と母がだっこの仕草をしたら、たけちゃんは首を振って泣き出したのだ!
3ヶ月でもよその家に行くともう母を忘れてしまうのか・・・兄貴としても複雑な気持ちで母の涙をながめていたものだった
きっと山口の叔母の家族もみんな兄弟だと思って可愛がってくれたから、間山の家に返すのは偲びなかったかもしれない
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家庭ではこんな大混乱があったが、書道のほうは徐々に生徒も増え、教室が狭くなってきた
たけちゃんが生まれて狭い 思い切って父は向かいの佐藤大工さんに頼んで家を増築することになった
ちなみに我が家の隣りに小さな家があった そこに警察官の赤坂さんという若夫婦が住んでいた
その家は間山の所有で貸していたのだった 詳しいことは知らない
その家を移動させ間山家の家も後ろにさげて、新しい道場の部分を増築したのだった
私も幼かったので、当時の家の寸法などあまり覚えていない
我が家は当初旧線路通りまで所有していて150坪くらいはあったそうだ
つえおばあちゃんが買ったのだが、売った人が二重転売していて、裁判に負けて旧線路側が取られてしまったと聞いている
大変残念な話だ
うちのすぐ裏には細い路地があり、西沢の自転車屋があった記憶があります
私より3つくらい年上の方だったらもっと知ってるのかもしれないが、そんな方がいたらいろいろ聞いてみたいものだ
話が横道にすぐそれてしまう
新しい道場はピッカピカで板の間だが、24畳くらいあった記憶がある
子供にはもっと広く感じたが、当時はそれで十分だったようだ
落成式には民謡の偉い『成田雲竹先生』『竹山先生』がおいでになり、魂入れの会をし、国柱会、立憲養正会の大会など、また祝賀会、葬式などもこの道場で行っていた
なんと忙しい家であったことだろう
小学4年になった兄と3年の私といっつも掃除や準備など手伝いをさせられた
そして筒井の支部のお弟子さんでK・チエさんというまだ高校生の子が内弟子に入ってきたのもこの頃だった
母も親戚も猛反対したというが、チエさんというその人は強引にリヤカーに荷物を積んで来てしまったという 幸畑の部落の農家の娘さんで、父は立派なブドウ作りの名人、チエさんの兄弟もみな優秀で大学まですすむ勉強一家だったのだった
筒井支部は田舎でも子供たちは優れた生徒が多いと父は話していた
なにかあればすぐあの遠くから集まってきて動いてくれた
人望がある父だったのだろう 記憶では筒井小学校裏の農協ちかくの佐々木さんなどは、父の支援の第一人者だった
そして中筒井ではK・慎太郎という生徒が、父とケンカをし間山陵風を頼って泊まりにきたこともあったそうだ そんな幾多の喜怒哀楽な逸話を聞いている
しかし正確でないのでそれは割愛しよう
筒井支部から内弟子に入ったチエさんばかりじゃない、自分も入りたかったという他の生徒もまだいたようだ。チエさんの近所の佐々木さん、中筒井の徳差さん
理想の書道を弁ずる若い指導者を信望する弟子は多かった
ちょうど幕末の高杉晋作や伊藤博文が学んだ「松下村塾」のように父は学校とは違った独自の教育を書道を通じて行ったのだろう
多少元気だった夏の母 となりの奥様と(昭和29~32年いづれか不明)
(S23年生まれ 工藤隆君は福島で生まれすぐ東京へ移住、松蔭幼稚園を卒園のちに小田原で小学校へ入学。家庭の事情で離婚した生母の再婚先でもある青森市へひっこしてきた。
引き取った生母はやんちゃな息子のたっての願いで義妹が通うおなじ習字教室の門を叩く事になる。)
それが水茎書道院 間山陵風との出会いだった。
隆も風変わりで自己主張の強い子なら、おなじく陵風もそうだった
学業も運動も抜群で、ガキ大将だったのが足の怪我がもとで、右足を台無しにしてしまった 傷心から立ち直って持ち前の「クソ根性」で書で立ち直った陵風先生から受ける教えは何だか自分の居場所を見つけたがごとく、隆は大きく生長を遂げた
本来なら学校でもそうだ
お行儀がよく、まじめで返事も元気がよく一生懸命忠実な子はカワイイ
しかし隆は違った まじめ?くそくらえ!行儀?それがどうした?
陵風は隆少年の心を見抜いていたのかもしれない
理路整然として手本そっくりに書かずに、紙からはみ出したような線 どの線も動いて止まずレールからはみ出しながらも生き生きとしたその線
『書の友』すいけいの競書の写真版に何度載って褒めちぎられたことか
とくに創作の部での評価が高かった 水茎から全国展へ出品した中で何度か大きな賞を彼はいただいている そうして
隆少年は経験と自信を深めていったのである
間山陵風先生は、僕を理解してくれるただ一人の恩師だ!
もうこの頃から時には自分の父であり、時には同士であるそんな絆を感じとっていたのだろうやがて青森東高校へ入学したが、(学業よりも経験が大事と…)、中退して彼は広い世界へ飛び出した
イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、アフリカ、インド アメリカ、オーストラリア、至るところを放浪しながらあらゆる仕事に従事した
泥棒と殺人以外は何でもした後に話してくれた何年に一度かは電話で「先生~!今東京さもどったじゃ これからそっちに遊びに行がはんで、待っててけへ~』
(白い)外車が停まったかと思うと金髪の女性を連れて、真っ黒に日焼けして精悍な顔で、びっくるりするおいらと兄の頭をなでながら、「せんせ~!しばらく~」
5年に一度は来るのだが、そのたびに連れてくる女性は変わっていた
そうしてまた数年がたった頃、彼は絵を描いているという
(32歳でアメリカへわたり、離婚後に知り合った女性(後に三番目の妻になるスーザン)は隆が仕事で描いた壁画をを見て、彼女は「へい!たかし~あなた、絵を本格的にやるべきよ」それがきっかけで描き始めた。) その絵が有名人に認められてドンドン腕もあがり、売れるようになった その絵は東洋的な静かな趣があり、書の筆で描かれたその線は他の誰の世界でもなかった まさしく彼そのものの世界 日本 津軽のねぶた 棟方志功を思わせるような、それでいて神秘的な菩薩のような、西洋と東洋の和合された世界
こうして工藤隆は【村正クドー】として世界の画壇にその名を広めていった
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なお、この文はご本人の村正氏と連絡して事実を確認し、訂正して改めて書き直したものです。なお、生母を叔母との記憶違いなど多々失礼のあったことを深くお詫び申し上げます。
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追伸
注目されてからの新聞記事や雑誌のインタビューに
絵の師は?私の師匠はただひとり 青森市の書道教師の間山陵風先生です
世界のどこにいっても彼はそう言い続けた
立派な方である、田舎の小さな町塾の習字の先生が自分を育ててくれたという
ほかにも大学教授や尊敬するアーチストの影響はあったでしょうが、一切その名は語らない人である
今や彼の絵は原画でも一枚100万はするだろう 大物アーチストに成長した
水茎の卒業生である
思いかえせば、友人だといって歌手の布施明を連れてきて、青森でオークションを開いたり、北海道へボランティアの途中だと、芸人の指パッチンで有名な「ポール牧」氏を連れて我が家へ立寄ったこともあった
その写真も見つかりしだい、ここへ載せたいと思っています
水茎60年余の歴史のなかで、彼ほど波乱に満ちて愉快な人生を送ってるひともいないでしょう
水茎の元祖 間山陵風が亡くなったとき(H10年、10月19日)葬式に彼が送ってくれた弔詞があります
その他、彼が描いてくれた作品が1~2枚
それものちほどここに追加編集で載せたいと思います
昭和27~33年は
初代の間山陵風は家庭をもち、北片岡(長島)に居を移してから、書道の教室を開き大きく発展する基礎作りに入っていました
しかしながら子育てと女房の虚弱体質、子供達の病気と重なって家庭的には苦労の連続でした
それを助けたのはほかならぬ陵風の母親(つえ)だった
柳町の南側に旧線路通りがあり、更に南側にこんにゃく屋さんがありました
そこが父間山陵風の生家であった 距離にすれば800m、子供の足で歩いて10分 母の容態が悪ければ走っていけば3~5分でつくのだった
こんにゃく屋は朝から忙しく、いつ行っても活気があった
お婆ちゃん(父の母)は「よぉ来たな のんぶみ~(私の呼び名)母さんまんだ悪してらのが、待ってろぉ~今行がはんでなぁ・・」優しく頭を撫でてくれてお菓子を手に持たせてくれる人だった
床に伏せてる母をさすりながら、一生懸命拝んでるその姿はまさしく仏様のようだった
つえお婆ちゃんは近所の方にも分け隔てなく言葉をかえ、こんにゃくなど余れば分配してあげ、優しい言葉を
かける人であった 仏様の教えの慈悲やお布施の実践を積極的にする方だったと思う
みんなみんなこのおばあちゃんが大好きだった
まだお腹がそんなに大きくない昭和32年の冬、兄が猩紅熱(しょうこうねつ)にかかった またたく間に妹に私に伝染し、入院隔離されることになった
伝染病ですから、保健所の方がきて、家全体を消毒したと聞いている習字のおケイコを休業したのかどうかは聞いていないので私も知らない
本家から民謡の叔父さんがトラックを出してくれて、八重田の県病隔離施設に連れて行かれた
子供にとってははるか遠い外国へ連れていかれたようだった
森と林しかないところだった
途切れた記憶をつなぐようにして思い出していますので、間違いもあろうかと思いますが、その点はよろしくお願いいたします
その病院は猩紅熱やジフテリアなど子供たちだけの施設だったようです
大抵は母親が一緒に付き添って泊まっているのでした
朝から晩まで子供たちの洗濯に追われていた母でした
兄小学1年、私は一つ下の6歳、妹が三才
とくに妹は百日咳で死ぬほどの病を経験したので、気難しくいつもしか目面をして、ムズってばかりいて母を困らせていたようです
おまけに母はその時に妊娠5ヶ月でした まぁ安定期とはいっても病弱な母にとっては辛かったと思います
症状は忘れましたが、お腹や手などの皮がむいてもむいてもむける?母の話では猩紅熱と水疱瘡が同時にきたと言ってたが・・・??
子供達にとっては1ヶ月の入院生活は注射と薬は嫌だったが、ほかは楽しいものでした
ご飯のチャイムが鳴ると大喜び、食事にかならずグリコのお菓子が付くのだ
そしてそれはオマケのおもちゃが付くのだった
隣りの部屋の同い年くらいの子供達と遊んで大騒ぎ 兄はビッタ(メンコ遊び)やコマ回しをして弟の私にも教えてくれた
でも一緒に遊んでいた子供が急に姿が見えなくなり、どうしたんだろうと母に聞いたら、亡くなったと聞いて驚いた ジフテリアだったので猩紅熱より重い患者さんだったのだ その頃はまだ死ぬという感覚がよく理解出来てなかった
父が伝染病の病棟に入られないのに、窓から侵入して看護婦さんに叱られて、注射された事もあったそうだ
退院間近のころ、クリスマスにはやはり窓から大きな赤い服をきた人が入ってきた 『こんばんは~♫みんないいこにしてるかな~?』
兄と私はすぐにサンタクロースだと分かり、大喜び
でも妹はびっくりして大泣き サンタさんが「はい!」とプレゼントを渡すと妹は泣きながらもそのプレゼントをグイッと取った みんな大笑いだった
もちろん院長先生が化けていたのだが、子供のころのたった一度のサンタの体験だった
退院のときにまた本家の車に乗って帰宅したのだが、冬で当時は除雪もままならない時代
運転していた若者の寺山さんが、自宅の前で車が雪に埋まって動かないのを窓からじっと眺めている自分の記憶があった
それから母はまた寝たきりになってしまった 妊娠5ヶ月の母にとっては入院の付き添いは大変なことであったと思います
4月の私の入学式(一年生)も出られずに、父が代わりに出席してくれた
母も怖いが父の怖さは半端じゃなかった まだ5、6歳の子供にも言う事を聞かないと容赦のないげんこつの制裁が待っていた
習字ではニコニコと笑い機嫌のいい父がいったん家庭にもどると何が気に入らないのか、ご飯中にガミガミと母を説教していて、恐ろしい日々が多々あったのだ
下手すれば飯台(丸い飯台)をバァ!!とひっくり返す父であった
昭和のガンコな父の典型であった(ノ`m´)ノ ~┻━┻ (/o\) オトーサンヤメテー!!
反抗することもなく、泣きながらそれを片付ける母を可哀想と思いながらも、小さい私たちもただオロオロするばかりだった
そんなときに本家からおばあちゃんが偶然来ることも多々あって救われた
「なに大きい声だしてらんだばぁ、通りまで聞こえでらよ、ほれ母さんも謝ってらはんで、もういがべ、さぁさぁわらハンドさ『団子』持ってきたよ』
信心深いおばあちゃんは本町の蓮華寺に良く行き、その帰りに立ち寄るのだった
父は幼いころから足を悪くして、厳しい療養に耐えた人で、激しい喜怒哀楽の性格で、まっすぐな性格で心にゆとりもなかったのだろう
そのエキサイトな性質は間山家の伝統だと聞いてはいるが、父の父(祖父)もそうだったし、長男の沢一もしかり、次男の沢義もよく奥さんを殴り飛ばしていたそうだ よく昔の人は辛抱強かったと思う 今なら一発で離婚だと騒ぐであろう
でも生徒の前での父は包容力たっぷりで、どんな事も知ってて、生徒からの質問にもすぐに明快に応えるので、その信頼度はすごかったと思いますね
怖い父であったが、なんでも知ってて何でもできる父はスーパーマンで兄と私にはかっこいい自慢の父で世界一の父であった
ときどき親戚のおばさんが来ると、私らにこっそり『母さんを大事にするんだよ、大きくなれば分かるから、母さんを守るんだよ』というのだった
子供の私らに何のことか知る由もなかった
水茎は昭和27年5月5日に始まったのですが、道場の開設に支援をしてくださった方々が沢山いたと聞いています。
この年はわたくし(間山陵行)が生まれた年であり、その5月5日に水茎が開設されるというのもなにか大きな縁を感じます。
初代の父=間山浅市 書名間山陵風は満25歳 母八重は28歳
浅市、八重夫婦は旭町の長屋でアケビ細工をしながら、露天商の手伝いなどもしたりして、いたところ、母や兄の逆鱗に触れ、急遽北片岡(長島3丁目)の間山家本家の倉庫であった小屋を改修してそこに兄弟たちがリヤカーで荷物を運んで住まいとして当てがれたのでした。(今の長島区域)
本家はこんにゃく屋さんで納豆やところてん(夏のみ)の製造業でした。
戦地に長男と次男が赴いていて、その間わが父浅市が留守大将として母(つえ)と共に頑張って商売を盛り上げていたのでした。戦地から帰った長男(沢一)は驚いて、弟の手を握り、
「ありがとう、よく頑張ってくれた!おまえにはいつか立派な家を建ててあげるから」 しかし事情がそうだったので、間に合わせの家であったが、それでも家賃もいらない若い二人にとってはお城のようなものだった
本家と取引のあった近所の八百屋のご主人は
「がんばいへ!うちのわらはんども習わせるはんで・・」勇気百倍だったという 相馬の八百屋さんは評判の人で、朝早くからリヤカーに野菜をつけて、
『野菜いごしが~!野菜いごしが~!」と気合の入った声で売りさばくキップのいい主人であった
そのお子さん長男(安清さん)、次男(幸造さん)、三男(賢造さん)、長女(ウエコさん)次女(しょうこさん)、三女(ヤスコさん)で6人である。その向かいの提灯屋の子供さんなどのほか、ポスターを見たり、趣意書をもらって近所の子供たちが5日にすでに20名ちかく入門したと聞く
本家には父の兄で民謡の成田雲竹師の一番弟子として頑張ってる次男の澤義さん(雲龍)と特に親しかったので、配達の折に宣伝をしてくれたものだった
その恩もあり、やがて習字の道場を借りて民謡教室も開くのであった
昭和27年ですから生徒は戦後生まれだけではなく、戦前生まれ 昭和一桁の大人から、昭和15年あたり(小学6年)から昭和20年生まれ(小学1年)が多かったのだ。
それからあっという間に広まり、昭和29年ころには団塊の世代(S22年~24年)生まれの子供たちが増えて習字教室はかなりの賑やかさになった
まだ20代の血気盛んな習字の先生は、恩師蛍沢欄川先生(田中澤二氏)の教えを子供たちに大声で話して聞かせ、理想の日本、理想の書道芸術とはの話を一日中話して聴かせるのであった
あるときは神風特攻隊の話、あるときは今上陛下の話、あるときは乃木大将の話、あるときは日蓮上人の話などを、見てきたように熱っぽく語った
まるで紙芝居を聴くように当時の子供たちは、先生の話に夢中になり習字が終わっても残って帰らずに、親が迎えにきたこともあったそうだ
その中に工藤 隆という少年がいた。(隆の字に間違いがあるかもしれません)
色が黒くて見るからに精悍な顔つきで、4歳年下の私は怖くていつも逃げ回っていたようだ
福島から来たとは聞いていたが、その詳しい経緯は知らない マサノさんという私には優しい人と従姉のようで、父に懐いてよくいろんなイベントに参加していた
(彼の話はまた次回もまた書きます=今後、父と深い繋がりをもって生きてゆく人だからです)
当時はテレビもなく楽しいことと言ったら、映画館くらいで、あとは子供たちは外で真っ黒になって遊ぶことでした
習字に集まってくる子供達は大晦日は、ご馳走を食べるとすぐに習字の道場へ遊びにきたものでした
みかんやお餅を持ってきてくれて、トランプ遊び、百人一首などをして遊び、除夜の鐘が鳴ると皆で揃って広田神社へ初詣に行くのでした
元日はまた生徒たちが集まってきて、お餅を食べたりしてから、またカルタをするのが通常だったようです
まだ幼児だった私は、大きいお兄さんお姉さんにはさまれながら、やっと1枚もとればいい方でした
私たち先生の子供はまぁ生徒たちから可愛がられましたが、中には意地悪な子もいて、よく私は泣かされていました。
だからあだ名が『赤ちゃん』や『あっちゃん』でした
物心ついた2歳ころはよく抱っこされて高い高いされたりして、ほっぺにチューをされました しかし酔っ払ったおじさんのチューだけは嫌だったのを覚えています
そうこうしてるうちに、私も昭和33年小学1年になるころでした
母(八重)のお腹には新しい命が入っていて、大きく膨らんできて、6歳だった私は5月に生まれるというその弟か妹の誕生が何よりの楽しみでした
つづく
昭和29年の秋には第三子 待望の長女が生まれた(澄子)
父は当初 書の師であった蛍沢蘭川先生(本名=田中澤二氏)の政治結社が理想の村を事業として、青森と秋田の県境に田中村建設を支援していた
一家5人に 妹が誕生(二ヶ月)兄4歳、自分3歳 正月記念写真(s30-1月)
父28歳、母31歳
その村の真ん中を流れる澄川の美しさにあやかり、澄子と命名をしたのでした
しかしその澄子は満2歳ころ、百日咳にかかり、県病に入院したときは医師に余命半年か助かっても脳をやられるかですと宣告された
毎日父は母(つえ)と共にお題目を唱えたそうです。書く書は南無妙法蓮華経、わが娘の復活を書いたそうです。
その願いもかない、娘は助かったのでした。
しかし、今度は私の母(陵風の妻)が看護のための疲れで倒れてしまいました。
元来身体の弱かった母でしたが、育児と看護は重労働でした
今のように家庭電化製品などありません
冬でも冷たい水でおしめなど洗っていました。
幼い子供を連れて回り床屋もしていました
まだ幼い子共が3人もいて炊事洗濯が大変なので、父は親戚の叔母さんに家事手伝いに来てもらいました。
(それから昭和36年くらいまでは入れ替わりいろんな方が家事手伝いにまいりました)
(家庭では大変な苦労があっても仕事では、極力笑顔で生徒たちに接して、陵風は師匠として尊敬されていきました)
当時、陵風は書の師匠が東京の蛍沢蘭川師から学んでいましたが、本来書家でなかったので、関係する弟子が青森におりました。
少年からの師匠の話はいずれまたお話いたしますが、
戦後落ち着いてからは外崎枕流先生(鈴木翠軒の弟子)に師事し、また青森の藤田大鳳先との出逢いで共に上田桑鳩(毎日展派)先生の講習会を経て感動し、奎星という機関誌に一緒に出品したりしました
(この頃、奎星で上田桑鳩師の弟子で森田子龍先生や、小川瓦木先生の影響もかなりあって、陵風と友人たちはこぞって前衛書も競争で書いたそうです)
青森では著名だった工藤蘭山氏が奎星の青森代表でした
そのほか青森県では人気の北門書道などにも出品したり、若手作家としての知名をあげていった(そして宮川松子先生と深い繋がりをもちます)
また生徒たちにも「星雲」「奎星」「北門」など出品させ、写真版を独占したこともあったそうです
家庭は困難であったが、毎日画仙紙の中に埋もれての書道三昧であったと記憶しています
昔の男ですから、家事などいっさい出来ない男であったので、兄と私の幼い子の育児などできようはずもありません
母がそんなであったので、兄も私もウンチやおしっこの訓練も放置されてたので、小学校に上がっても、寝小便は治りませんでした
母の大変だったのは三度三度のご飯支度、そして洗濯物の山
それに子供たちがしょっちゅう風邪で寝込むという悪循環でした
そうしてるうちに次々と妊娠をしてしまう母で、その度に当時は当然のごとく、医師に勧められて赤ちゃんを堕ろしていたのです
(のちに解ったことですが、堕ろした数が10人に近かったと聞いて唖然となりました)私たち兄弟4人は選ばれた子でした 運悪く命を絶たれた兄弟に対して恥ずかしくない生き方をしなければならない、そう思って私は書を選ぶ道を決めたのでした)
筒井教室は昭和29年
現在の筒井小学校に隣接していた駐在所(交番)が始まりでした
初代間山陵風27歳のころ、姉が山口正顕氏(巡査)に嫁ぎ、その駐在所で習字を始めたのでした
足の悪かった初代の父は車はおろか、自転車さえ乗れなかったので、北片岡(長島)から通うのにはバスを使って行くのでした
今のように一日に何便もバスが通ってる時代じゃなかったはず
バスに乗るだけでも大変だったようです
私の叔母が駐在のカミさんをしてた関係で、あちこちに顔を利いていたようで、生徒も増え場所を探していたら、ちょうど近くで筒井小学校真向かいに土田商店という塩、タバコ、雑貨屋がありました。そこのおカミさんが店の中の一部の倉庫にしていた部屋を開けてくれて、教室の移転が可能になりました
いくらで貸してくれたかは分かりません
昭和29年といえばまだかなり物価も安い時代でした。
おそらく中学校卒での初給料で800円、高校卒で1000円くらいでしょうか
想像ですが、古い家でしたので500~1000円くらいの家賃ではなかったでしょうか?
すると生徒のお月謝も一ヶ月で「80円」とかせいぜい100円くらいでしょうか
子供の多い時代でしたが、みんな貧しかった時代でしたので、高い月謝は取れなかったと聞いています 貧しい家の子だとお月謝を免除したり、半分にしたりしたとも聞きました
生活で足りない分は母が回り床屋をして、足しにしていたようです。
(母は生家が床屋で、嫁にくるまで床屋をしていたのでした)
この筒井教室の生徒たちは、主に幸畑の子供たちが多かったようです
今のように桜川団地もありませんので、筒井という部落、浜田の場所も筒井でした
あとは中筒井
幸畑の部落の子供たちは学校は筒井小学校でしたので、朝早く歩いて1~2時間かけて通ったそうです
とくに冬は雪で道が隠れてしまって、ドブに落ちてしまうことも日常茶飯事だったそうです。
私が初めて行った頃(昭和46年)ころはバスがありましたが、やはり学校は筒井小でした。偉かったですねぇ、遠くの子ほど忍耐強くて上手な子が多かったようです。
写真は土田商店前、顔ぶれの様子から、昭和31年頃だと推察いたします
こうした記念写真は何故か?雪の中が多いようです
たぶん正月の記念か冬休みに入る前だと思いますね。
従兄弟の山口さんの兄弟がおります
さて、この商店、津軽特有のこもせスタイルで、戸を開ければ120cmくらいの廊下のような土間の道がありました
そして木製のシャッターのような板でしきっているのです
奥は長屋のように長くて何世帯かに借家として貸していました
そこには共同のトイレや井戸がありまして、また土蔵もありました
その通路はすべて土間でしたので、丸いデコボコがずっとありました
私が初めて教室に行ったとき(昭和46年)もそのままだったのです
トイレが怖かったのを記憶しています
初代に初めて貸してくれたおかみさんは長男にお嫁さんがきてからは、奥に引っ込みまして、私が家賃を支払うときだけたまに会うことができました
すでに80を半ばの人だったと思います
残念なのは、お店の中にあったこの頃の教室の写真がないことです 撮っておけばよかったなぁとつくづく思います
この筒井教室もなんとH16年ころまで50年もの間、土田商店さんのお世話になったのでした
教室は現在奥野市民館に移りましたが、土田さんのご発展をいのるばかりです
水茎書道院は
昭和27年5月5日
青森市の長島(旧 北片岡)3丁目に教室を構えました
開設当時の写真が見つかり次第
少しずつアップいたします
写真はスキャンの仕方がわからないので、原始的に写真をカメラで撮って
修正しております
昭和28年(水茎創立満1周年)を記念して道場で撮ったようです
真ん中に陵風先生そして母(八重)長男(信行)次男(わたくし)がまだ満1歳で母に抱かれています。
私が満1歳ですのであとはみんな年上ですので、ほとんど誰なのか分かりません
長島4丁目の相馬の八百屋さんのご兄弟
近くのお店の田沢さんご姉妹
もしこれを見ていた方で、心当たりがあるようでしたら、どうかご連絡願えれば幸いです。
昭和29年水茎が満2年、当時の教室兼自宅の前で、当時の生徒達と写真を撮っています
間山陵風の兄弟の子供たち(つまり、私のいとこ)もかなり来ていたようです
山口の叔母の子供達、久慈の叔母の子供達、赤田観水さん(当時中学生?)
木村さん(珠算の先生)とかは記憶がございます
カメラは持っていなかったが、生徒の中でいや、父兄さんが持っていたようで、何かのイベントがあればこうして記念に撮ったものでした
まったくもってありがたい話です。
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平成26年
水茎62年の歴史がございます
初代の跡を継いで懸命に頑張ってきましたが、
初代のように連続して発表展覧会や、蔦研修会などできずに途絶えてしまったことは誠に残念至極です
自分の力無さに情けなくなります
諸々の事情はおわかりと思いますが、やはり初代は事業家であり、革新家であったとおもいます。
人を集める人望が高かったのだと思います
周りには音楽家、芸術家など友人として或いは盟友として、何かあるごとに駆けつけてくれたようです
時代は変わって父もいない、叔父もいない、一緒に教室をやっていた弟も書から離れてしまいました
今はまったく一人で奮闘しているわけです
今の時代に一人で生きていくのは大変です
そう思って私は日本教育書道会という組織に入会しました
水茎支部という名目で10年ほど前に、青森の【東青地区連合会】に所属しています
大きな組織にいれば毎年連合書道展には参加できます
新年には書き初め席書大会などがあります
また書の暁という競書に10名ほど参加させて、昇級に励ませております
二代目、私の生の続くかぎり、水茎の信念を貫いてまいりたいと思います。
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