昭和29年の秋には第三子 待望の長女が生まれた(澄子)
父は当初 書の師であった蛍沢蘭川先生(本名=田中澤二氏)の政治結社が理想の村を事業として、青森と秋田の県境に田中村建設を支援していた
一家5人に 妹が誕生(二ヶ月)兄4歳、自分3歳 正月記念写真(s30-1月)
父28歳、母31歳
その村の真ん中を流れる澄川の美しさにあやかり、澄子と命名をしたのでした
しかしその澄子は満2歳ころ、百日咳にかかり、県病に入院したときは医師に余命半年か助かっても脳をやられるかですと宣告された
毎日父は母(つえ)と共にお題目を唱えたそうです。書く書は南無妙法蓮華経、わが娘の復活を書いたそうです。
その願いもかない、娘は助かったのでした。
しかし、今度は私の母(陵風の妻)が看護のための疲れで倒れてしまいました。
元来身体の弱かった母でしたが、育児と看護は重労働でした
今のように家庭電化製品などありません
冬でも冷たい水でおしめなど洗っていました。
幼い子供を連れて回り床屋もしていました
まだ幼い子共が3人もいて炊事洗濯が大変なので、父は親戚の叔母さんに家事手伝いに来てもらいました。
(それから昭和36年くらいまでは入れ替わりいろんな方が家事手伝いにまいりました)
(家庭では大変な苦労があっても仕事では、極力笑顔で生徒たちに接して、陵風は師匠として尊敬されていきました)
当時、陵風は書の師匠が東京の蛍沢蘭川師から学んでいましたが、本来書家でなかったので、関係する弟子が青森におりました。
少年からの師匠の話はいずれまたお話いたしますが、
戦後落ち着いてからは外崎枕流先生(鈴木翠軒の弟子)に師事し、また青森の藤田大鳳先との出逢いで共に上田桑鳩(毎日展派)先生の講習会を経て感動し、奎星という機関誌に一緒に出品したりしました
(この頃、奎星で上田桑鳩師の弟子で森田子龍先生や、小川瓦木先生の影響もかなりあって、陵風と友人たちはこぞって前衛書も競争で書いたそうです)
青森では著名だった工藤蘭山氏が奎星の青森代表でした
そのほか青森県では人気の北門書道などにも出品したり、若手作家としての知名をあげていった(そして宮川松子先生と深い繋がりをもちます)
また生徒たちにも「星雲」「奎星」「北門」など出品させ、写真版を独占したこともあったそうです
家庭は困難であったが、毎日画仙紙の中に埋もれての書道三昧であったと記憶しています
昔の男ですから、家事などいっさい出来ない男であったので、兄と私の幼い子の育児などできようはずもありません
母がそんなであったので、兄も私もウンチやおしっこの訓練も放置されてたので、小学校に上がっても、寝小便は治りませんでした
母の大変だったのは三度三度のご飯支度、そして洗濯物の山
それに子供たちがしょっちゅう風邪で寝込むという悪循環でした
そうしてるうちに次々と妊娠をしてしまう母で、その度に当時は当然のごとく、医師に勧められて赤ちゃんを堕ろしていたのです
(のちに解ったことですが、堕ろした数が10人に近かったと聞いて唖然となりました)私たち兄弟4人は選ばれた子でした 運悪く命を絶たれた兄弟に対して恥ずかしくない生き方をしなければならない、そう思って私は書を選ぶ道を決めたのでした)