水茎は昭和27年5月5日に始まったのですが、道場の開設に支援をしてくださった方々が沢山いたと聞いています。
この年はわたくし(間山陵行)が生まれた年であり、その5月5日に水茎が開設されるというのもなにか大きな縁を感じます。
初代の父=間山浅市 書名間山陵風は満25歳 母八重は28歳
浅市、八重夫婦は旭町の長屋でアケビ細工をしながら、露天商の手伝いなどもしたりして、いたところ、母や兄の逆鱗に触れ、急遽北片岡(長島3丁目)の間山家本家の倉庫であった小屋を改修してそこに兄弟たちがリヤカーで荷物を運んで住まいとして当てがれたのでした。(今の長島区域)
本家はこんにゃく屋さんで納豆やところてん(夏のみ)の製造業でした。
戦地に長男と次男が赴いていて、その間わが父浅市が留守大将として母(つえ)と共に頑張って商売を盛り上げていたのでした。戦地から帰った長男(沢一)は驚いて、弟の手を握り、
「ありがとう、よく頑張ってくれた!おまえにはいつか立派な家を建ててあげるから」 しかし事情がそうだったので、間に合わせの家であったが、それでも家賃もいらない若い二人にとってはお城のようなものだった
本家と取引のあった近所の八百屋のご主人は
「がんばいへ!うちのわらはんども習わせるはんで・・」勇気百倍だったという 相馬の八百屋さんは評判の人で、朝早くからリヤカーに野菜をつけて、
『野菜いごしが~!野菜いごしが~!」と気合の入った声で売りさばくキップのいい主人であった
そのお子さん長男(安清さん)、次男(幸造さん)、三男(賢造さん)、長女(ウエコさん)次女(しょうこさん)、三女(ヤスコさん)で6人である。その向かいの提灯屋の子供さんなどのほか、ポスターを見たり、趣意書をもらって近所の子供たちが5日にすでに20名ちかく入門したと聞く
本家には父の兄で民謡の成田雲竹師の一番弟子として頑張ってる次男の澤義さん(雲龍)と特に親しかったので、配達の折に宣伝をしてくれたものだった
その恩もあり、やがて習字の道場を借りて民謡教室も開くのであった
昭和27年ですから生徒は戦後生まれだけではなく、戦前生まれ 昭和一桁の大人から、昭和15年あたり(小学6年)から昭和20年生まれ(小学1年)が多かったのだ。
それからあっという間に広まり、昭和29年ころには団塊の世代(S22年~24年)生まれの子供たちが増えて習字教室はかなりの賑やかさになった
まだ20代の血気盛んな習字の先生は、恩師蛍沢欄川先生(田中澤二氏)の教えを子供たちに大声で話して聞かせ、理想の日本、理想の書道芸術とはの話を一日中話して聴かせるのであった
あるときは神風特攻隊の話、あるときは今上陛下の話、あるときは乃木大将の話、あるときは日蓮上人の話などを、見てきたように熱っぽく語った
まるで紙芝居を聴くように当時の子供たちは、先生の話に夢中になり習字が終わっても残って帰らずに、親が迎えにきたこともあったそうだ
その中に工藤 隆という少年がいた。(隆の字に間違いがあるかもしれません)
色が黒くて見るからに精悍な顔つきで、4歳年下の私は怖くていつも逃げ回っていたようだ
福島から来たとは聞いていたが、その詳しい経緯は知らない マサノさんという私には優しい人と従姉のようで、父に懐いてよくいろんなイベントに参加していた
(彼の話はまた次回もまた書きます=今後、父と深い繋がりをもって生きてゆく人だからです)
当時はテレビもなく楽しいことと言ったら、映画館くらいで、あとは子供たちは外で真っ黒になって遊ぶことでした
習字に集まってくる子供達は大晦日は、ご馳走を食べるとすぐに習字の道場へ遊びにきたものでした
みかんやお餅を持ってきてくれて、トランプ遊び、百人一首などをして遊び、除夜の鐘が鳴ると皆で揃って広田神社へ初詣に行くのでした
元日はまた生徒たちが集まってきて、お餅を食べたりしてから、またカルタをするのが通常だったようです
まだ幼児だった私は、大きいお兄さんお姉さんにはさまれながら、やっと1枚もとればいい方でした
私たち先生の子供はまぁ生徒たちから可愛がられましたが、中には意地悪な子もいて、よく私は泣かされていました。
だからあだ名が『赤ちゃん』や『あっちゃん』でした
物心ついた2歳ころはよく抱っこされて高い高いされたりして、ほっぺにチューをされました しかし酔っ払ったおじさんのチューだけは嫌だったのを覚えています
そうこうしてるうちに、私も昭和33年小学1年になるころでした
母(八重)のお腹には新しい命が入っていて、大きく膨らんできて、6歳だった私は5月に生まれるというその弟か妹の誕生が何よりの楽しみでした
つづく